この前行った、愛玩動物飼養管理士のスクーリングの講義の中で、とても興味深い話がありました。
それは、動物愛護論の中で、欧米と日本では動物についての考え方が根本的に違うということです。
動物について考え方の違い
特に欧米は狩猟民族ということもあり、昔から他の動物を食べたり、使役に使ったりと、色々な動物たちを昔から人間のために利用してきました。そのため、民族的な思想や哲学の中でも、動物の扱いについて色々と議論されて来たのです。
それは旧約聖書の中にも表れています。旧約聖書の天地創造では、神は動物と人間を作り、その人間に動物たちの管理を命じているのです。
これは、動物たちは人間のために神が作ってくれたものであり、人間が支配すべきものという考え方です。
動物たちを完全に人間の下に置いていることがとても特徴的なのですが、この欧米の考え方は、日本人からするととても傲慢とも思える考え方です。
一方で、日本では、仏教の影響を強く受けており、万物の殺生を戒め、動物と共生することが自然と行われてきました。
また、人は輪廻転生するものであり、前世は動物であったかもしれないという考え方もあります。
そのため、日本人は古くから動物たちとともに共生することを重要視し、基本的に獣肉を食べることを禁じてきました。
昔話からもわかる欧米との違い
このように、動物の考え方が欧米と日本では根本的に違うのです。
講義では、グリム童話に出てくる動物の話があったのですが、欧米の童話では動物が人間に化ける話はほとんどないのだそうです。
逆に人間の王子様や王女様が呪いをかけられて、動物の姿にされるという話はたくさんあります。それは高貴な身分の人が動物の姿に変えられることで、貶められたことを強調する狙いがあるのです。
これは、動物たちを人間と同じ目線では見ておらず、動物は卑しいものであり、堕落したものとの考えがあったからです。そのため、動物たちが人間のように振る舞うことは、考えもしなかったのです。
逆に、日本では、「つるの恩返し」や「ぶんぶく茶釜」など動物が人間に化ける昔話は無数にあります。日本では動物と人間の間の垣根があまりないことの表れなのだそうです。
このように童話ひとつとっても、欧米と日本では、動物というものの捉え方に大きな違いがあるということは、とても興味深いです。
動物愛護は偽善?
動物愛護の話になると、どうしても現実と建前があり、いろんな人の思惑が交錯します。
最近でいうと、中国の「犬肉祭り」の話題で毎年のように盛り上がるのですが、愛護団体のヒステリックな様子が典型的な感じです。
《参考記事》 中国、玉林の「犬肉祭り」は考えさせられることがいっぱい
欧米からすると、愛玩動物である犬を食べることはとても非道なことで、許せないことです。ただ、そういう人たちも牛、ブタ、ニワトリを平気で食べているのです。
なぜ、牛やブタは自分でも食べているのに、他の国の人が犬を食べると目くじらを立てて怒るのでしょうか?
なぜ、犬だけ食べてはいけないのか、その理由がよく分かりません。日本でも昔々は犬を食べていましたし、肉食を禁止されてからも、魚やクジラは肉食の対象外とされてきました。
同じ動物でありながら、人間によって勝手に愛玩動物と位置付けられた犬、猫はぬくぬくと暮らせる権利があるのに対し、家畜と分類された動物たちは太らせられ、食べられてしまうのです。
動物愛護では、その家畜たちの権利も主張されるようになるのですが、所詮、どんなに大切に育てられようが、おいしそうに育ったら食べられてしまうのです。殺される側の動物からすると、とても非道なことをしているのです。
こんなことを考えていると、仏教の「すべての生き物を殺してはいけない」という不殺生という考え方はとても先進的な考え方だと思うようになりました。
欧米の文化に感化され過ぎた現代日本で見直されるべきなのは、仏教なのかもしれません。
まとめ
動物愛護は、近代の欧米で始まった考え方で、最近の日本での殺処分問題にまで至る考えです。
動物愛護の考え方にも色々なものがあり、極端なものから、穏やかなものまで、沢山の考え方があり、動物愛護論を勉強することはとても面白かったです。
ただ、個人的には、この動物愛護の考え方はイマイチ賛同できないところもあります。それは偽善的なことが多すぎるからです。
私たち人間は、一方では、動物虐待はダメ、愛玩動物の殺処分は悪だと言いながら、その一方で、たくさんの動物たちを殺して食べているのです。
人間は遥か昔から、他の動物を食べて生きてきたのです。それはこれからも変わらないでしょう。
どんなに虐待せずに育てても、所詮、それは食べるためなのです。
そのあたりの矛盾が大きすぎて、とても嫌だったのですが、こうして動物愛護論を勉強していると、昔から色んな人が色んなことを考えてきていることが理解でき、少し頭の中が少し整理できました。